第2回-3 煖をとる人々 アイルランド編「大地の炎が燃える」
写真/飯田裕子(写真家)
氷河期の地層を掘る
ダブリンからゴールウェイに向かう途中、シャノンブリッジにある国営のボグ精錬所にも立ち寄った。そこには、100マイル四方のボグ・ランドが広がっている。現在もボグを採掘し、火力発電所に運んでいる。発電所では町の12パーセントの電力をまかなっているという。ボグの採掘は、いわゆる露天掘りで、すでに元の地表から15メートル近く掘り下げているらしい。以前あった起伏に富んだ丘陵地は、削り取られて見渡すかぎりの黒い平地に変わっている。
ボグの地層は、深く掘るほど土が黑くなる。黒いほど堆積年数が古く、品質が良く、火力も強い。掘ったボグは、野天に積んで50パーセントほど水分を抜く。完全に乾燥させると、すぐに燃えつきてしまう。
シャノンブリッジの広大なボグ・ランドは、雨季に入って採掘が中止されていた。観光用のボグ・トレインに乗って無人のボグ・ランドを巡ると、いたるところに湿原のように水が浮いている。地中でまだ分解されずに残った巨木の根が転がっている。太古の大森林の威容を脳裏に思い描く。この地球には、悠久の時の流れとともに、荘厳なまでの、圧倒的な自然の力と意志が働いている。その、長いサイクルによる自然の呼吸を前にして、いまや地球全体を支配するような、強大な力を獲得したと錯覚している人間の営みなどは、はかなく、脆い。
遊園地の乗り物のようなボグ・トレインは、ボグ・ランドを回って戻ってくる。どうしてもボグの大地の感触を足で確かめたくて、トレインが止まったときに飛び降りてみたら、ズブッと沈んで靴に水が染みた。黒い水だった。だが、黒い水は掬ってみると透明に澄んでいた。厚いボグの地層で濾過された水は柔らかく、まろやかな味がする。世界最古のアイルランドのウイスキーは、この水から造られる。しかし、期待したボグ掘りはここで見ることはできなかった。
だから、バンゴーエリスで、ボグ掘りの人影を見つけたときはうれしかった。「いたっ!」と思わず声を上げた。全身に血が駆け巡った。急いで車を止めて駆け出した。道端の壊れかけた柵を乗り越えて走った。足の下がスポンジのように弾んだ。雨も気にならなかった。近づいて声をかけると、男たちが驚いたように顔を上げた。
「ボグを掘っているんですね?」
「そうだ。ずっと掘っているよ。父も、祖父も、曾祖父も、昔からここの土地でずっとボグを掘って暮らしてきたんだ。私たちは、ボグがなければ生きられなかった。ボグがあったから生きてこられた……」
穏やかで、朴訥とした笑顔が返ってきた。しかし、その笑顔の奥に、語りつくせない憂愁が潜んでいるように見えた。人懐こい笑顔で話す小肥りの男はジョン・カロヤン(44歳)で、「あっちの禿げた男はペーター(55歳)。そう、兄弟なんだ」と言って、互いに親指を立てて破顔を交わし合った。深い信頼が漂っている。「ボグ掘りを見せてほしい」と言ったら、「いいよ!」というように一つ首をかしげて仕事にかかった。
ボグは、スレインという刃が長い独特の鋤で掘る。道具はそれ一本で、ほかに何もない。スレインに足をかけて突くと、刃がズブッと入っていく。土は草や、樹木のセルロースが毛細血管のように張り巡らされていて、スポンジ状になっている。スレインの刃の長さが60センチメートル。その一掘りでブロック状に切り出された土塊が、ボグ一個分になる。
一掘り60センチメートル。それを彼らはワン・ステージ(一層)という言い方をする。一層、二層、三層、四層まで掘る。二層くらいまでは茶色いブラウン・ボグで、三層目くらいから黒いブラック・ボグが出てくる。深くなるほど、地層が古く、炭化が進んでいて、よく燃え、火力が強い。三層目あたりになると、練りこんだ羊羹のように、水を含んだ黒くて滑らかな土に、スレインの刃は切れ込んでいく。
頼んでスレインを借りる。見たようにスレインに足をかけて突き立てると、刃が斜めに滑って形が崩れてしまった。二人に笑われながら、何度かやってみる。遊びごとの気持ちを戒めて、土とスレインの刃に神経を集中する。角度を見て、均等の力で突くと、刃がスーッと吸い込まれるように入っていく。その滑らかな土の感触がいまも手に残っている。不思議な感慨が込み上げた。
「私たちは、氷河期の地層を掘っているんだ。信じられるかい?」
ジョンが、きっといままでに何度も心に反芻したはずの驚きと感嘆を、また初めてのように口にする。ワン・ステージ。その鋤の一掘りの地層に、地球1000年の悠久の歴史が凝縮している。鋤一つで、石器時代や氷河期まで遡ることができる。人為をはるかに超越した自然の神秘の営みに、ただ圧倒される。
ジョンとペーターの兄弟が、黙々と作業を続ける。切り取られたボグの塊が積み上げられていく。乳色の霧が渦巻くようにボグの大地を飲み込もうとしている。雨も強くなって体が冷える。立ち去りがたい気持ちだったが、今夜、二人の家を訪ねる約束をして別れた。道路まで戻って、車を走らせながら振り返ると、濃い霧の中に一心に働く二人の姿が、影絵のようにぼやけて見えた。
夜になって雨が本降りになった。街灯のない村や道路は真っ暗だった。迷いながら、海側の小さな石造りの家を探し当てた。家の外に積まれたボグと、煙突から流れる独特の匂いが教えてくれた。
ペーターは暗い部屋の暖炉の前に座って、静かにボグの火を見つめていた。弟のジョンは、朝からの労働に疲れてすでに眠っていた。簡素な部屋の中は、四隅に闇が宿っていた。明かりは暖炉の火だけで、天井の影を揺らしている。部屋は、冷えた体にぬるま湯のように暖かかった。「ほんの10年前までは、ボグしかなかったんだ。いまはガスの家が多くなったけど、いまでも年寄りはボグじゃないと嫌だという。私たちは、自家用と、そんな人たちのためにボグを掘っている」とペーターが言った。
老人は、昔の暮らしを変えたくない。どんなに辛酸な暮らしでも、自分たちの生きた証を消したくない。過酷な暮らしの中にも、家族の強い絆と愛情が確かにあった。それを忘れたくない。
一方で、過去を忘れたいと思っている人たちもいる。前の日に泊まったB&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)の女主人がそうだった。彼女は大西洋沖合の島で生まれ育った。
「子どものころは、ボグ・ランドの上を裸足で遊んだの。昔はみんな働き者で、善良な人たちだった。土が風で飛ばないように石垣を作って、土と砂と灰を混ぜて、小さな畑を作ったわ。海草を拾ってきて肥料にしたの。みんなで助け合って暮らした。いい時代だったのかもしれない。だけど、みんな、どこかに行ってしまった。暮らしは豊かになったけど、何でもお金の時代になって。電気も、ガスも、お湯もボタンを押して……」
彼女はそう言ってから、声を詰まらせた。
「だけど、辛かった。先の夢なんか持てなかった。歳をとった祖母は家で一日じゅうボグを燃やしていたわ。家族全員は肩を寄せ合って暖炉を囲んで、ジャガイモのシチューを煮たり、荒れた海で捕ってきた魚を焼いて食べた。壁に穴が開いていて、家の中は家具も食器も、洋服もみんなボグの灰だらけ。煙が臭くて嫌だった。私も、祖母のようにここで歳をとるのかと思った。思い出すと悲しくなる」
彼女は感傷を断ち切るように明るさを装いながら、アイリッシュ・コーヒーをいれてくれた。カップとスプーンをお湯で温め、濃いコーヒーに砂糖を二杯、アイリッシュ・ウイスキーを注ぎ、スプーンを裏返して生クリームを注ぎ入れる。クリームが沈まずに表面をゆっくりと広がっていく。黒いボグの大地に流れる雲のようだった。濃密な味だった。
彼女の背中で赤々と燃える暖炉の火は、電気のイミテーションだったことに気づいた。何も言えなかった。一夜だけの出逢いだった。
ペーターは、暖炉の前に座り直して、ボグを入れた。炎の中で、再び白濁した煙が朦々と立つ。ボグの水分の粒子が凝結の核になって煙を湧き上がらせる。強い臭気が鼻腔を刺激し、やがて本格的に火が燃えると、煙が薄くなって炎が赤橙色に輝きだす。
「私たちは、ずっと昔からこの家に住んでいた。でも、40年前に家族みんなでイギリスに移住した。向こうにいる間、ボグの火と匂いが懐かしくて仕方なかった。ここには三年前に弟と二人で帰ってきた。先祖代々の土地で、ボグを掘って暮らそうと思って。だけど、家族はイギリスに残ったままなんだ」
ペーターは、ボグの火を見つめながら、ひとりごとのようにつぶやいた。背中が寂しそうだった。長い移民生活の疲れだろうか。それとも、家族と離れ離れで暮らす辛さだろうか。昼の労働で体をいじめても、夜はなかなか寝つけない。
アイルランドは、侵略と移民の歴史に翻弄され続けてきた。紀元前4000年ころ、すでに農耕を主体とする先住民族が住んでいたといわれるが、紀元前500年前後にケルト人がやってくるころには、「ダナの息子たち」と呼ばれた種族が勢力を伸ばしていた。ニューグレンジなどの巨石文明を築いた古代の民だ。
だが、その後、鉄器文明を持っていた「ミレの息子たち」と呼ばれるケルト人の種族に敗れ、勝者は地上世界を支配し、敗者は地下世界に追われる。彼らは、巨石古墳の下や鬱蒼とした森、湖のほとりなどの地下世界に隠れ住む。隣り合わせの異界に住む人々に「妖精」という人格が与えられる。「妖精(フェアリー)」、「小人(ノーム、レプラコーン)」、「小妖精(スプラト)」、「鬼(ゴブリン)」、みんな仲間だ。彼らは、いまも地上世界の人々と同居している。
ケルト人は、西ヨーロッパ全域に広く分布していた民族で、アイルランドに最初に入ってきたのはイベリア半島のケルト人だといわれるが、その後も、ローマ帝国にヨーロッパ各地が侵略されて、大量に流入してくる。
5世紀に聖パトリックによってキリスト教がもたらされた後も、8世紀から9世紀にかけて北欧のヴァイキングがたびたび略奪と侵略を繰り返した。ヴァイキングは土地を獲得して定住を始めた。現在のダブリンやウィックロー、ウォーターフォードなどの町の多くは、ヴァイキングが入植して建設した。ヴァイキングの次はイングランドが侵攻してきて、12世紀から20世紀に至るまで、800年に及ぶアイルランドの悲劇というべき苦難の歴史が続いた。
アイルランドのカトリック教徒は、英国国教会のプロテスタントに徹底的に迫害された。14世紀にはペストが大流行し、1845年から大飢饉が3年間続いた。異常気象と、原因不明のウイルスでアイルランド人の主食のジャガイモが壊滅した。プロテスタントの地主の小作人の貶められていたアイルランド人は、主穀物の小麦を地主に収奪されながら餓死していった。かろうじて生き残った人々は競ってアメリカやイギリス、オーストラリアなどに流れていった。それは移民などというなまやさしいものではなく、流亡の難民だった。当時800万人の人口が、3年間で3分の1に激減したといわれる。
その後、イギリスの植民地化は持続し、プロテスタントとアイルランドのカトリックとの血生臭い争いに疲弊した人々の国外移住が続いた。移住した人々もまた、社会の底辺に生きることを強いられた。
そうした他民族の長い支配の中で抑圧され、虐げられてきたアイルランドの人々は、ケルト人のよき資質ともいうべき個人主義的忍耐強さと、魂の幻想世界に糧を求めた。ケルトの複雑な渦巻模様や装飾は、彼らの内なる心の襞だ。妖精たちは友達だった。アイルランドの詩人、W・B・イェイツは言う。
「……どんな人間でも、もし人の心の奥に深い傷跡を残すようなめにあえば、みんな幻視家(ヴィジョナリー)になるからだ。しかし、ケルト民族は、心に何の傷を受けるまでもなく、幻視家なのである」と。
ペーターとジョンの兄弟は、故郷に帰ってきた。先祖代々の大地でボグを掘って生きる決心をした。そこが彼らの安住の地だ。
「天気のいい日は、陽に当たって働くと気分がいい。静かでピースフル(平和)だ。それだけだが、それだけでいいんじゃないかと思う。」
ペーターの表情が少し和らいだ。
「ときどき妖精を見るか?」と訊いたら、「そうだね!」と言うように、おどけた顔で肩をすくめた。他人を力で排除することのない、それでいて熱い感情を自分の心の内に秘めているアイルランド人の顔だった。夜が更けていた。ボグの火がいつまでも燃えていた。